自分と向き合ってこなかった私が見つけた新しい生き方。みきのプロフィール

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こんにちは!

ACTIBASEブランドマネージャーのみきです!

急に現れたこの人誰?って思われている方、多いと思います。

思えば私自身も自分のことを深く考えたことがなかったので、これを機に初めて自分の人生を振り返って全力でプロフィールを書いてみました。

皆さんにもありのままの私を知っていただきたいです。

ぜひご覧ください。

簡単な略歴

千野 美樹(ちの みき)

1993年1月20日生まれの水瓶座。現在25歳。

小学校教諭一種免許状を取得するも町の小さな歯科医院に歯科助手として就職。

ACTIBASE代表しょーまに誘われてACTIBASE運営側にメンバー入り。

毎週山に行っている。

山が大好き。人の笑顔が大好き。

わがまま姫の誕生

幼少期、ある山に1件だけ建つ貸家に住んでたんです。もちろんお隣さんはいなくて、一番のご近所さんは麓にある、お墓。

幼稚園もバスが迎えに来れないので毎日車でガタガタ山道を下山して通っていました。

夏はその辺にクワガタ、カブトムシを捕まえに行って、秋はその辺で拾った栗で栗ご飯をつくる。

お菓子はその辺の蛇苺。特技はカマドウマ(バッタみたいなやつ)を素手でつぶすこと。

そんな幼少期だったけど、私は自分が本気でお姫様だと思っていましたw

だからいつか王子様が迎えに来てこんな生活ではなくなるのだろうと。

のんきによく歌も作ってた。例えばこんな曲。「青空は私のためにあるのよ〜♪」(え。)

そしてなぜか寝るのが大嫌いだった。というか寝かされるのが大嫌いだった。(ただのわがまま)

ベッドに連れて行ってもらっても寝るわけない。そのため両親が毎晩、ドライブに連れてってくれてた。

夜のドライブってなんであんなに心地いいんですかね。両親の策略に負けて寝ちゃうんです。

で眠った私を両親がそっとベッドに運ぶ。その瞬間目を覚ます私。

「なんで寝かすのおおあああああああ」と泣き叫ぶ。

世界は私を中心に回ってると思って疑わない幼児でした。

1番を取ることの喜びとプレッシャーを知った小学生時代

小学生になると同時に、山の生活とはさよならして、街に降りてきました。

引越し先の小学校には同じ幼稚園から通う友達はいませんでした。

先生に言われて後ろの席の目のくりっとしためちゃくちゃ可愛い女の子と友達になることになりました。

「よろしくねみきちゃん♡」

よかった、可愛くていい子…と思ったのもつかの間。先生がいなくなった瞬間

 

「あんたなんかと友達になるわけないじゃん、バーーカ」

 

……え……女、怖。。。

 

その日から毎日「バカ」と言われ続ける日々

「うるさいバカ!」と言い返すがその子以外に友達のいない私惨めでした。

耐えかねた私は母親に泣きつきました。すると母親は一言。

 

「なんでもいいから一番を取りなさい、そしたらもうバカにされないから」

 

この言葉に取り憑かれたように私は当時学校全体で取り組んでいた「硬筆展」に向けて猛練習

硬筆とは習字や書き初めの鉛筆バージョン。見本を見ながら丁寧に書き上げ、一人一枚、一番うまくかけたものを提出。その中で金賞・銀賞が選ばれ賞状をもらえる。

もう、めちゃくちゃ練習しました。休み時間も放課後も時間があればとにかく硬筆の練習

納得いくものが書けなくて悔しくて、泣きました。いや、泣き叫びました

練習した紙も何枚も何十枚も破きました

そして発表の朝。廊下に張り出されているみんなの作品。恐る恐る自分の作品に目をやると

 

金紙が貼られていたんです。そう金賞!!!

心の中ではうおおおおおっしゃああああ!!の嵐。

例えるなら、1万個のドミノを並び終えたくらいの喜びと達成感と気持ちの高揚がありました。

 

全校朝会で名前が読み上げられ、教室に戻り、みんなの前で表彰されました。

その日からバカにされることはなくなり、友達も増え、お姫様と思っていた頃の自信が戻ってきました。←

そこからは楽しい小学生ライフを過ごしました。

でも毎年、硬筆展の時期だけはピリピリしてました。毎年泣きながら猛練習。

練習帳を1冊使い切らない人がほとんどの中、私は毎年3、4冊は余裕で使い切ってたんです。

習字も習ってなかったからとにかく見本を1mm単位で真似しました。1mmでもずれてると思ったら泣きながら破り捨ててました。

金賞じゃなくなることが、一番じゃなくなることが怖くて、結局小学校6年間硬筆展の時期は毎年泣いてました。

おかげで今も「字が綺麗ね」とよく言われます。ありがとう、あの頃頑張ってくれてw

辛いことだらけの中学生時代

急に始まった貧乏生活

中学生になる頃に両親が別居。ほどなくして離婚。兄弟3人母に連れられました。

私は「パパと結婚する!」って言ってたほどかなりのパパっ子だったから悲しくてなかなか受け入れられませんでした。

かといって母親も好きだったし、何より3人兄弟の一番上だったから自分の気持ちは自分の中にだけ留めておこう、と。

綺麗な住宅街にある一軒家から治安の悪いところにあるオンボロアパートに引っ越し、そこからは貧乏生活が始まりました。

夕飯にお米と1つのお皿に入った1品限りのおかずを兄弟3人とつついて食べる家具はほとんどなく電気が止められることもありました。

でも母は

「また電気屋さん間違えてるよ!今電話して電気つけてもらうからちょっと待っててね」

そのすぐ後、本当に電気がつく。

文句を言うふりをして、母は私たちが不安にならないよう電気会社にお願いしてくれていました。

そんな母のおかげで貧乏生活もそこまで貧乏と感じずに過ごせたんです。

嫌われないための「スネ夫作戦」

一方、学校ではかなり静かになりました。

小学生の頃はただみんなでワイワイ遊んで楽しんでいれば自然と仲良くなっていったのに、中学生になって

「私この雑誌が好き」「このモデルが好き」とか

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メイクを始めたり、服装に凝り出したり、とそれぞれ個性がハッキリしてきて、学校ではそういう共通の話題で仲良くなっていくということが多かったんです。

雑誌やメイク道具ではなく、兄弟へのおやつやプレゼントにお小遣いを使っていた私はみんなの話題についていけず、私には「共通の話題」という武器がない、と自信をなくしていました

 

ある時、私が歩いてる後ろから私のことを言っているであろう悪口が聞こえてきました。

知らない子たちでした。その子たちに会うたびに悪口を聞こえるように話されました

何も反応せず、言い返さず過ごし、中学2年生になりました。

最悪なことにその子たちと同じクラス。

そこで私は「人って自分のことを好いてる人を嫌いにはなりづらいよなぁ」と思って

「私はあなたたちのことが好きだよ」と思わせようとその子たちに自分から絡みにいきました。

 

実は前から友達になりたかったの」 「本当にいつも可愛いよね」 「羨ましいなぁ

 

いつも誰よりも先にその子たちに「おはよっ」と声をかけ

終わりにはいつも「また明日ねっ」と。

最初は「えwなになにw」みたいな反応。私も楽しくてこんなことをやっているわけではなかったし、そんな反応されてもちろん傷つきます。そもそも悪口を言っていた子たちに話しかけるってだけで苦しい

それでも続けていたらだんだん悪口を言われなくなりました

というかどんどん仲良くなっていって最終的には向こうから私の方に来てくれるようになったんです。

 

人に嫌われないように」っていうのをすごく意識し始めたのはこの頃からでした。

嫌われてしまったら一人になってしまう「一人でいる人」=「周りより劣っている人」。”と思っていました。

”自分は劣っている”と感じたくなかったんです。

そんな私はクラスでも目立つような華やかな子とつるむようになりました。

自分の主張もハッキリしていて、それでいてクラスの中心にいて、可愛くて。完全に憧れていたし羨ましかったんです。

一緒に学校に遅刻して行き、一緒に授業をサボり。。その子と一緒にいること自体が大事でした。

もちろん楽しくもありましたが…

自分の個性がわからず、自分に自信がないから、自分より強い人のそばにいてとりあえず安心している。完全にスネ夫くん状態ですよね。

大好きなパパとのお別れ

家庭ではまた大きな変化がありました。

中学3年生の頃、母親が再婚したんです。

正直再婚はとてもとても嫌でした。うん、絶対して欲しくなかった。

本当にもうパパに会えなくなると思ったんです。もう本当にパパとは戻らないんだと。

その頃こっそり、帰り道にかすりもしないパパの家にわざわざ行って、ただ通り過ぎる。とかやってました。本当にパパが恋しくてたまらなかったけど、誰にも言えませんでした。

そんな中の再婚だったから本気の本気の本気で嫌だったんです。

けどやっぱり言えませんでした。

当時幼稚園に通っていた弟が「パパが欲しい」といつも言っていたし、ママにも幸せになってもらいたかったから。

好きなことを全力でやった高校生時代

超過酷なのに楽しい野球部生活

 

高校生になり、私は野球部マネージャーになりました。

なった理由。野球部の人がかっこよかったから。と周りには言っていたけど実はそうじゃありません。

別れたパパが野球が大好きだったから。特に甲子園はパパが毎年見てたから、少しでもパパに近づけるかなって思ったんです。

 

そんな理由で入った野球部が思った以上に面白かった

野球部に入った高校3年間は宝物みたいな時間でした。

 

マネージャーって自分のために動くんじゃないんですよね。

選手のため、チームが勝つために、ただひたすらそのためだけに動く

 

それが最高に心地よかった。

人のために動くってことが最高だった。

「自分のことじゃないのに…よくそこまでできるね」とよく言われたけど

そういう風に動くことが自分のためでもあったし、自分のしたいことでもあった

 

毎朝毎朝、朝4時半に起きて始発に乗り、誰よりも早くグラウンドへ行く。

朝練の支度をして、早めに来た選手のテーピングをする。

そのテーピングのために本も何冊も読んだ

どの症状にどのテーピング法がいいのか。外部から来てるトレーナーさんにも聞きに行って教わった

真夏には湿らしたタオルを完全に絞り切らずに冷凍庫にぶち込み、パリパリに凍ったタオルを練習終わりの選手たちに手渡す。

真冬にはバケツに入った冷たい水に手を突っ込んで雑巾を絞り、キンキンに冷えた金属バットを拭く。

もちろん大変なこともたくさんあったし、選手と思うように意思疎通できずにぶつかり合った日も泣いた日もあった

夏休みは半日しかないし、年末年始の唯一の連休も春合宿の合宿代を稼ぐためにバイトもしなければいけなくて家族と過ごす時間も部活以外の友達と遊ぶ時間も全然なかった

でも「甲子園に出る」という一つのゴールに向かって、苦しい時も楽しい時もみんなで同じ方向を向いて、一人ひとりが必死に過ごしたあの日々は何にも変えられない私の一生涯の宝物になりました。

パパとの再会

そんな日々の中で一緒にマネージャーをやってきたもう一人の女の子、かっちゃん。

毎日一緒にいるし、楽しい時も苦しい時も一緒に過ごしてきたからもちろんそれだけで大切で大好きな存在でした。

でもそれが本当に特別な存在と感じるようになったのは私にとってある出来事がきっかけでした。

 

かっちゃんにパパのことを話したんです。私はパパに会いたいんだということを。

なぜかずっと誰にも言えなかったそれがかっちゃんには素直に話せました。

かっちゃんはそれを真剣に聞いてくれて背中を押してくれました。

 

勇気を振り絞って母にパパに会いたいことを伝え、母は父の連絡先を調べてくれ、教えてくれました。

電話をかけたのも、かっちゃんの隣ででした。

 

久しぶりに聞いたパパの声は、毎日一緒に居た時と変わらぬ声でそれだけで涙が溢れて想いが言葉になりませんでした。

パパ、私ずっと一緒に居たかったよ

その電話中ずっと隣に居て、一緒に涙を流してくれたかっちゃん。

誰にも言えずにいた私の気持ちを引き出してくれて、私のことを自分のことのように真剣に考えてくれたかっちゃん。

かっちゃんと友達になれたことが高校時代に得た一番の宝物です。

 

その後、パパとも会って、それからたまにご飯に行くようになりました。

あんなに嫌がっていた再婚も、新しい家族の中で愛されて、楽しい日々を過ごすうちにプラスなものへと変わりました。

そこで初めて気付いたんです。私は大事な家族が増えて幸せだな、と。

 

部活を引退してからは、校則を破ってピアスの穴を開けたり、メイクをしたり、制服を着崩したり…とにかく自分のしたいってことをどんどんやっていました

遊んでばかりの大学生時代

大学生になった私は「ギャル」と言われることが多くなっていました。

私の中での「ギャル」は派手で自分の主張が激しくて私は「カッコイイ」と思っていました。自分にはないものだなと憧れていたので言われて嬉しい反面「そんなそんな」と恐縮していました。

が、今写真を見返すと、うん、派手ですな。w

そんな大学生時代、ずっとなりたかった小学校の先生になるべく、児童教育を専攻し教育学を学んでいました。

修学旅行の運営を自分たちだけでやってみたり、模擬授業や小学校への週一ボランティア、実習など、実践的なものが多く、子どもに触れる時間も多くありました。

さらに私はもっと子どもと触れ合う時間を増やすため、学童でのアルバイトも始めました。

が。そんな中で致命的なことに気付いてしまったんです。

 

子どもが好きじゃないかも。

 

もともと、子どもも面倒をみるのも好きだったから小学校の先生を目指していたんですが、、実際にそういう機会が多くなってそんなに子どもたちに力を注げない自分に気付いたんです。

野球部をやっていた時のような、「これが必要かな、あれも必要かな」と自分で考えて次から次に自然に仕事を探しちゃうような感じ大変なのにそれが楽しいと感じていたあの時のキラキラした日々。

子どもと触れ合えば触れ合うほど、やる気が出ない自分に気付いて「好きじゃない」ことを痛感していました。

やりたいことがなくなった私は真面目に勉強することもなく友達と遊んでばかりいました。

なんとなく始まった社会人生活

歯科助手になる

小学校の先生になることを辞め、別の道を探し始めましたが

ずっと、小学校の先生になることしか考えていなかったし、大学もそのことしか勉強していなかったし、そう簡単に自分のやりたいことは出てきませんでした。

自分のやりたいことがわからないままとりあえず就職したのが、大学に紹介してもらった町の小さな歯医者でした。

受付対応や電話対応、器具の消毒滅菌から在庫管理など業務は全般的にわたりましたが

一番メインの業務はドクターのアシスト業務。ドクターが治療してる横で診療補助をすることでした。

診療補助では「ドクターは次に何がしたいのか。今何を考えているんだろうか。」を理解していることが大事で

ドクターの目の動き、表情、仕草からそれが読めるようになっていき、先回りしてドクターが欲しているものを準備していったり逆にドクターが欲してないものを排除できるようになりました。

要するに「気を遣う」って作業です。マネージャーをやっていた経験からかこれが私は得意でした。

院長からは「今までついてきてもらった歯科助手さんの中で一番治療がやりやすいよ」と言ってもらえて、2年目からは指導側に周り、管理職もつけていただきました。

自分で決めた道に自分でピリオドを打つ

そんな感じで順調に歯科助手業をやってきていましたが、3年目後半を迎える頃に

私、ずっとこのままは嫌だな…

と思うようになっていました。

順調だったし、お給料も上げてもらってお金にもそんなに困っていませんでした。

でも、なーーーんかつまんなかったんです。毎日が。

やっぱりあの野球部の時のような日々の輝きがないんです。

もちろん仕事をやっていく中でやりがいを感じてはいたけど。

 

やりがいは感じていた  けど

 

じゃあ、このままでいいの?

本当にやりたいことなの?あの時のような輝きがないのは仕事だからなのね?

 

自問自答して私が出した答えは「NO」でした。

 

一度きりの人生、自分の人生。自分は自分しか大切にできないから。

やりたいことではないことを選択している自分は自分を大事にできていないなと思って

 

翌日、院長に辞めたい旨を告白しました。(辞める理由は嘘つきました)

やりたいことを探している時に出会ったACTIBASE

生涯見ることがないだろうと思っていたような絶景に出会う

決まった退職日は1年後。(長っ!!w いやこれでもかなり話し合って短くしてもらったんですよw)

とはいえ、まだやりたいことは見つかっていなかったのでその1年の間に見つけようと思っていました。

 

そんな中、私はアウトドア関係でお仕事ができたらいいなぁと漠然と思っていました。

それは以前、なんとなくついて行った登山がきっかけでした。

それまでは登山なんてしたことなかったし、興味もなかったし、むしろ

登山ってなんか地味じゃない?w」

って思っていたんです正直。

そんな風に思っていた登山だったけど、初めて登った秩父にある武甲山で山頂からの眺望はそんなに綺麗ではないのに「なんて気持ちがいいんだろう」って魅力を感じてしまっていたんです。

木々に囲まれた中で自分の息づかいがはっきり聞こえてきて、登りは苦しくて、下りも足がガクガクなって

「生きてる」って感じがしたんです。

 

とはいえ、私の周りには登山をやっている人はいないし、知識がないまま山に行くのは怖い。

ということでキャンプやハイドロスピード(激流の川をボディボードだけで下るアクティビティ)、ケイビング(洞窟探検)など他のアウトドアで楽しんでいました。

やっぱりアウトドアって楽しいなぁ!生きてるって感じがする!

そう思ううちに、漠然と仕事にしてみたいと思うようになっていたんです。

 

それでもやっぱり、山に行きたいなぁという思いは武甲山に登って1年経っても消えませんでした。

そんな中、友達に教えてもらい、入ったのがACTIBASEでした。

 

それから毎週のように、ACTIBASE代表のしょーまさんやACTIBASEの仲間に念願だった山に連れて行ってもらいました。

イッテQとかで世界の絶景を見て「いいなぁ〜私は一生行くことないんだろうなぁ、綺麗だなぁ」と思っていたけど

日本にもこんな素晴らしい景色があるんだということに登山を始めてから初めて気付きました。

絶景、自分の足で見に来れるじゃん!!と、行くたび行くたび、登山にハマり、気付けばアウトドアも登山しかしなくなっていました。

私が望む生き方

その中でしょーまさんから夢の話を聞くことが多くありました。

俺はこうしたい

こうなるのが夢だ

そう語るしょーまさん。そして本当に実行していくしょーまさん。その姿は本当に真っ直ぐかっこ良く輝いて見えました

そしていつしかとても尊敬していました。

バカにされたくなくて硬筆展で必死になった小学生時代

嫌われたくなくて自分の気持ちを後回しにしていた中学生時代

家族のことを思い、本当の気持ちを押し殺した離婚と再婚

紹介されて入った歯医者

このどれも周りに起因していました。

 

ただ一つ、高校生時代の私は違いました。

夢中になっていたから、自分の好きなことだったから辛いことも苦しいことも乗り越えられた愚痴も出なかった。もっともっとやれることはないかと自分から探していた。そんな日々が最高に輝いていた。

 

そして今、

愚痴ばかりこぼしながら毎日毎日歯医者に通う私

自分のやりたい事で生きて輝いて見えるしょーまさん

 

どっちの生き方がいいか。そんなことはもうわかっていました。

 

私はある日突然しょーまさんに呼び出されて

一緒にACTIBASEやらないか」と誘われました。

勢い半分、周りに起因して物事を選択していた自分を変えたいという気持ち半分、YESと返事をしていました。

 

私の日常に輝きをくれた山でお仕事がしたい

山の魅力をみんなにも感じてもらいたい

そして私は誰かのサポートをするのも好きだから

私に「自分を変えたい」というきっかけを与えてくれたしょーまさんの夢を一緒に叶えたい

自分の気持ちを大事に生きようと決めました

そして今、私は歯医者も退職し、ACTIBASEで活動しています。

 

2018年6月には、ACTIBASE発のアウトドアブランド「仙」をしょーまさんプロデュースのもと、立ち上げました。

モノづくりをやることはしょーまさんに「一緒にやろう」と誘われたあの日に決めました。

ただこなすのではなく、誰かを想って仕事をしたかったんです。誰かのために何かをするのは私のためでもあるし、私がしたいことでもあるんです

それが形になってその人のいつも傍にあるということが本当に素敵なことだなと思ったんです。

そしてACTIBASEでのお仕事全体を通して私は

「自分」を大事にしてほしい

というメッセージを伝えたいと思っています。

 

何かを決断するとき

何かを諦めるとき

何かを始めるとき

何かを終えるとき

 

どんな時でもそうですが、自分の気持ちや意見を信じて、それを大事にしてほしいなって。

私自身がそれがすごく苦手だったから。でも、とても大事なことだと思うから。

 

私もまだまだ苦手です。

苦手だけど、向き合いたいと思って

変わりたいと思って、今取り組んでいます。

今後のみきの応援、よろしくお願いします!

長い長い文章を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

今まで自分の気持ちとちゃんと向き合ってこなかった私ですが、こんな私から変わりたいと思って行動を始めました

今は仲間とともに夢を叶えるため、そして自分のために一生懸命やっていこうと思っています。

こんな私ですが、応援、よろしくお願い致します!

 

 

 

 

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みき

ACTIBASEブランドマネージャー。高校時代は野球部マネージャーとして奮闘。それ以降、夢中になれるものがなくなんとなく生きてきた。こんな自分から変わりたいと思っている時にACTIBASE代表しょーまに出会い、山にハマる。2018年1月にACTIBASE運営メンバーに入り、同年6月にアウトドアブランド「仙」を立ち上げ。




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ABOUTこの記事をかいた人

ACTIBASEブランドマネージャー。高校時代は野球部マネージャーとして奮闘。それ以降、夢中になれるものがなくなんとなく生きてきた。こんな自分から変わりたいと思っている時にACTIBASE代表しょーまに出会い、山にハマる。2018年1月にACTIBASE運営メンバーに入り、同年6月にアウトドアブランド「仙」を立ち上げ。